榮太樓總本鋪

榮太樓總本鋪

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変わらぬ製法で愛される江戸のスイーツ

江戸時代の文政元年(1818年)、それまで飯能で菓子屋をしていた細田徳兵衛が、ふたりの孫を連れて江戸出府を果たした。最初は井筒屋の屋号を使い、九段坂で拳煎餅を焼き売りしていたが、やがて代が代わり、徳兵衛のひ孫にあたる細田栄太郎(のちに安兵衛)が、安政4年(1857年)、日本橋の地に小さな菓子屋を構えた。主に商品は金鍔(きんつば)や大福だった。

その後ほどなくして生まれたのが、榮太樓總本鋪の名を全国に知らしめることになる、大ヒット商品の飴だ。棒状に伸ばした紅い飴をハサミで切り、その切り口をつまんで三角形にした形状から、その飴は洒落好きの江戸っ子たちの間で、“梅ぼ志飴”の愛称で呼ばれるようになった。また化粧品の乏しい明治、大正の時代には、梅ぼ志飴を唇に塗ってから口紅をつけると唇が荒れず、紅に照りが出ると上方の芸妓や舞妓たちの間で話題となり、東京土産の定番としてもてはやされた。

榮太樓總本鋪のシグネチャーとして愛される金鍔と梅ぼ志飴。今日では手づくりから部分的に機械製造へと変わったが、工程や材料はほとんど変わっていない。また、そこには現代においても職人の仕事がある。透き通った口当たりのよい飴をつくるためには、その日の気温に応じて温度調整を行う、職人の感性が不可欠なのだ。ザラメと薩摩芋からつくられた水飴を高温の直火で煮詰める際に、それを鍋から下ろすタイミングは、職人の目で測るほかない。

現在、榮太樓總本鋪のセカンドブランド「あめやえいたろう」では、過去のエピソードを踏まえて、リップグロスのようなみつあめ“スイートリップ”を販売し、可愛いものに目がない東京の女性たちから再び注目されている。伝統の製法を守りつつ、さらなる流行を生み出そうとしている榮太樓總本鋪は、江戸菓子を新たなステージへと連れ出そうとしている。

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