青梅から愛を込めて、天然製法の藍染を世界へ。壺草苑工房長が貫く思い青梅から愛を込めて、天然製法の藍染を世界へ。壺草苑工房長が貫く思い

青梅から愛を込めて、天然製法の藍染を世界へ。壺草苑工房長が貫く思い

東京都青梅市は、古くは有名な織物の街。「僕が子どもの頃は、向こう三軒どころか、百軒が機屋(はたや)さん。早朝から機織り機のガチャガチャとした作業音が鳴り響く中、缶蹴りをしながら小学校に向かったものです」。そう言って原風景を振り返るのは、この地で1919年から続く村田染工が手がける藍染工房 壺草苑(こそうえん)の工房長である村田徳行さんです。

タデ科の植物を原料とする日本の伝統的な染色技法である藍染は、その鮮やかで深みのある色が、日本を象徴するもののひとつとして海外にも広く知られています。村田さん率いる壺草苑は、江戸時代の技法である「天然灰汁醗酵建て」による藍染を現代に受け継ぐ、全国でも数少ない工房。化学薬品を一切使わず、自然界からとれる原料のみで染色することで、天然藍にしかない優しさと美しさが表現されるのだそうです。

青梅から愛を込めて、天然製法の藍染を世界へ。壺草苑工房長が貫く思い
工房に併設されたショップには様々なアイテムが並ぶ。ぬくもりを感じさせる風合いは天然原料で染め上げられた証しといえる。


村田さんが大学生のとき、兄・博さんが家業である村田染工の3代目社長に就任します。当時、オイルショックの影響で織物産業は衰退。家業を終わらせないため、兄弟2人で取り組んだのは「青梅嶋(おうめじま)」の再現でした。天然藍の綿糸に絹糸を織り交ぜた青梅発祥の織物である「青梅嶋」は、江戸時代に庶民の日常着として大流行したものの、いつしか作る人もいなくなった幻の名産品。村田さんたちはこの青梅嶋を復活させることで、家業の未来に活路を見いだそうとしたのです。

「まずは藍染の修行をするために全国各地の工房を回りましたが、どこも技術を公開したがらず、かなり苦労しました。それもそのはず、実は化学染料を使っているところが多く、昔ながらの天然藍を用いた染色を行う工房はほとんどなかったのです」

村田染工の一部門として壺草苑を立ち上げたのは1989年のこと。藍染の染料となる「すくも」の生産量で日本一を誇る徳島県で天然製法を守る職人たちと出会い、村田さんの悲願である青梅嶋が復活するまでに、10年の月日が流れていました。かくして天然原料に絞った製造にこだわる藍染工房の礎が築かれ、世に送り出された作品は国内外から高く評価されるようになります。

青梅から愛を込めて、天然製法の藍染を世界へ。壺草苑工房長が貫く思い
藍染工房 壺草苑工房長の村田徳行さん。藍染について語る顔からは、その深い情熱が伝わってくる。


藍染は日本だけでなく世界中で古くから用いられていますが、伝統的な技法を守り続けているところは海外にもほとんど残っていないそう。そのため、壺草苑の技術を学びたいと、アジアやヨーロッパ、中東、アフリカなど世界各国の職人が視察に訪れます。かつての自身の苦い経験を教訓とし、ここの工房はフルオープン。「誰が来ても、全ての工程を見られるようにしています」と村田さんは自信をのぞかせます。

「日本の藍染は江戸時代にすでに確立されていました。原料づくり、豊富な技法、発色は全て一級品であり、それが現代に伝承されている点においても、日本の藍染は世界ナンバーワンであると自負しています。昔の技法を守ろうとすると、時間も手間も、お金もかかります。でも、化学的な藍を使って大量生産で価格を下げるようなことは絶対にしないんです。そうなったら、うちがやる意味はないと思うから」

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壺草苑では現在10人の職人とスタッフが働いている。村田さんに見守られながら黙々と作業をこなす。左写真手前は、藍を発酵させている桶をかき混ぜているところ。


なぜ天然原料にこだわるのか、という問いに対して村田さんは、ひと言「それが藍染だから」と答えます。一切の妥協を許さず、真摯に本物の藍染を貫くその一方で、昔ながらの製品だけを作っていては技術を守り切れないと、有名ブランドのOEMを請け負うほか、現代的なデザインに藍染を施したアパレルブランドも展開しています。

一度は消えた地域の名産品を復活させ、世界に誇れる天然製法の藍染を未来へとつなぐ道筋に光を灯した村田さんのもとには、今、その技術を受け継ごうとする若い職人たちが集います。彼らの仕事ぶりを見つめながら藍染について語る村田さんの目は、この道に入り40年余りが経過してなお、少年のようにキラキラと輝いていました。職人たちの熱意と信念、そして江戸から続く伝統的な技法は、これから先もずっと伝承されていくでしょう。